アラスカ物語

2007年3月17日
小林 富士雄

 今年の林業関係団体の賀詞交歓会で依頼され乾杯の発声をしましたが、その折に「アラスカ購入」の話を切りだしました。これはクリミア戦争で疲弊したロシア帝国が1867年アメリカ合衆国に720万ドルでアラスカを売却した話です。購入条約をまとめた国務長官ウイリアム・H・スワードは「巨大な冷蔵庫を購入した」とアメリカ国民の非難を浴びたが、その後アラスカ各地で金鉱などの豊富な資源が見つかりスワードの先見性が見直されました。
 私がここで話したかったのは、実は日本の森林資源のことです。大戦後の疲弊した国土に先人達が営々として造林した木材が漸く利用できる時期になったのに、過去の造林が愚行であったかのごとく貶める向きもあるが、この巨大な木材資源こそ日本の宝であると言いたかったのです。これをアラスカとくらべたのは必ずしも適切な例ではなかったかも知れませんが、この貴重な木材資源を生かすことに我々は智慧の限りを尽くすべき時だということ強調したかったのです。
 ところで、私が敬愛する新田次郎氏の著作に「アラスカ物語」があります。明治元年宮城県石巻生まれの安田恭輔(のちにフランク安田)という人が、15才で外国航路の見習船員となりアメリカに渡ったあと、22才で雇われた米国沿岸警備船がアラスカ北岸で結氷に閉じこめられ、救いをもとめ北岸の町ポイント・バローにむけ酷寒の地を単身で赴くところから物語が展開します。
 フランク・安田は船を降りポイント・バローに住み着き、そこでエスキモーに愛着をもち鯨漁の親方の娘ネビロと結婚します。その頃鯨の乱獲のため鯨に頼っていたエスキモーは危機に陥り、これを打開すべく南のブルックス山脈を越えを金鉱を探しあてます。アラスカで初めて金鉱が発見されて(1896年)間もなくの頃です。金採掘や毛皮取引をもとにユーコン河沿いに「ビーバー村」を新設し、そこに集団移住したエスキモーやインディアン達から尊敬され、またジャパニーズ・モーゼと新聞に書かれたとあります。第二次大戦後彼が日本人強制収容所から戻ったころ村は寂れており、1958年彼は故国日本を思いながら90才で生涯を閉じました。筆舌に尽くしがたい労苦に自ら進んで立ち向かった明治の日本人の話、これが「アラスカ物語」です。
 アラスカといえば、私が林学徒であった昭和28年(1953)株式会社アラスカパルプの設立が決まり、何人かの同級生はアラスカの森林を夢見て五月祭で写真展示をしたりしましたが、卒業時には採用話はないまま青春の夢に終わりました。この会社は平成16年(2004)に50年の歴史を終えました。私の数年後卒業の小泉栄三氏は最後の社長として幕引きをつとめられたので、とくにお願いして「昭和林業逸史」に「アラスカパルプ物語」を書いて頂きました。その副題を「海外雄飛の夢」とつけられたように小川氏も我々と同じ夢をみたのだと思ったことでした。

2007年3月 小林 富士雄

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