2014年11月27日
箕輪 光博
秋は芸術の秋、読書の秋ともいう。そこで、今回は、「意味の変容」と「草枕」と題する2冊の本を紹介したい。
『意味の変容』
芥川賞作家・森敦の著作に『意味の変容』という小冊子がある。私はかつて、25年ほど前に、森敦の記念館がありかつ即身仏で知られる山形の中蓮寺に立ち寄ったことがある。そこで、はじめて、「意味の変容」に出会った。この本は、はじめから終わりまで、円を描くと、世界は、境界の属する外部と境界の属さない内部の2つの世界に分かれると繰り返し説き続ける。その怪奇さ、異様さが多くの人たちの関心を呼び、中にはバイブルにしている人がいる。外部には境界が属しており、そこに住んでいる私達は、邪念や思いこみ、こだわりなどに縛られて不自由であり、また他人や外の評価を気にするあまり、日々息苦しい生活をおくっている。それは、まさしく私達の煩悩・日常の世界である。この世界を、著者は、「邪悪な・退廃した世界」と呼んでいる。これに対して、境界を含まない内部は、「崇高・美麗な世界」であり、この二つの世界を同時に含む世界は、「壮麗」であるという。この辺までくると話は難しくなるが、私流にとらえれば、氏のメッセージは、自分の持つ生命のすばらしさ、その生命と私達をとりまく大自然との交信の大切さに気が付いてほしいということではなかろうか。
ところで、私達は、教育をとおして、人に迷惑をかけたり、悪いことをしてはいけないと教えられてきた。また科学や芸術の世界では、真であること、美しいことが最上の判断基準となっている。しかし、一方で、「真善美」という言葉は、私達の生活の中では、もはや昔のような存在感をもっていないことも確かである。その影はますます薄くなっている。むしろ、昨今の政治の世界を持ち出すまでもなく、世の風潮は、邪悪な・退廃した世界の方に向かいつつあるような気がする。たとえば、文部科学省は子どもたちに、「生きる力」や人間力を身につけさせようとしているが、肝腎の先生の方の生きる力や人間力が減衰しつつある。先生方は、様々な制約・基準(境界)に縛られて人間力を発揮するどころではない。まさしく、退廃した外部の住人になりつつあるのである。もちろん、それは教師ばかりではない。わが林業界においても、森林や木材をモノやカネとしか見ない風潮がはびこりつつある。フォレスターの精神はどこに行ったか、私達は原点に立ち返る必要に迫られている。
これに対して、壮麗な世界とは、そこにいる人、来る人を「魅了する」somethingを内包している場所である。それは、森敦の魂と読者の魂がひとつになって響き合う場所でもある。実際、「意味変容」の読者は、私もその一人であるが、誰もが氏に「魅了される」のである。人を「魅了する」ということほど、すばらしいことはない。そのような魅力のある教師がもっともっと出てこないと、わが国の未来に明日はない。次に、もう一つ、同じようなことをテーマにしている例を紹介する。
『草枕』
かつて、夏目漱石は『草枕』の冒頭で、「知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに、この世は住みにくい」と、当時の近代日本人の息苦しさをうまく表現した。実際、私達は、仕事場や生活の場での人付き合いで、悲喜こもごもの毎日を送っている。理屈に走ると冷たい男と思われ、人情を大事にすると騙されるか、馬鹿扱いされる。意地っ張りは疎まれる。現代はますます、そのような傾向を強めつつある。そこで、彼はさらに次のように続けている。
「住みにくさが高じると、安いところに引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生まれて、画が出来る。…… 住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く」
嫌な人から離れてどこかに移っても、また同じ類の人やいじめに遭う。どこまで行っても、その世界を出ることが出来ない。それは、境界がそれに属するところの「邪悪な・退廃した外部」の世界に相当する。それでは、そこから脱して、「崇高・美麗な内部」の世界に移るにはどうしらよいか。漱石は、「住みにくき煩いを引き抜いて」、詩や画の世界に住むことを薦める。原点に帰って、素直な目で、大生命・大自然の心眼でみればよいと説く。これは、大自然を通して、内なる生命(内部)に目覚めよ、そこに自由な境地があるといっているような気がする。是非とも、再々読をお勧めしたい。
私は、詩は苦手であるが、画は好きである。次に示す画は、若き日の渡辺崋山が貧乏生活を少しでも楽にするために画に努力している姿を画いたものである。当時(昭和29年)は、幼年画家(!)・小生も美麗な少年(小学6年生)であった。
2014年11月 箕輪 光博